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2020-04-06に書いていた記事

感染症指定病院でもなく、災害拠点病院でもない、中規模病院の勤務医、小学生の父です。
これまで、震災や台風が目前まで迫ってきたことはあるけれど、生活が激変することなくやってこられていました。しかし、今回ばかりは、ついに我が家にも大規模災害が襲ってくるのかもしれません。日々刻々と変わる勤務先の状況からも、じわりじわりと、その距離を縮められています。災害派遣される数日前に感じたことのある緊張状態がずっと続いています。
当院の設備で、どこまでであればスタッフや入院患者の安全を確保しながら医療を提供できるのか、どこからは基幹病院にお願いしなければならないのか、日々検討を重ねています。平時であれば救急車断るべからずの当院でも、肺炎疑い、低酸素という情報だけで、基幹病院への集約やむなしに、すでになっています。若い方、基礎疾患がない方だから大丈夫とは思わないでください。貴方や、貴方の身近な方の搬送先が数時間決まらないというとんでもない恐怖が、現実になっています。
明らかな接触歴のない方から検査陽性者が多数出ていて、無症状の方も少なくありません。自分の手を介して院内感染、市中感染、家族内感染を引き起こさないように、通勤中も、職場でも、家庭や買い物先でも、うつらない、うつさないように、緊張が絶えません。
いつか家に帰れない日が来るかもしれず、妻に子供のことは頼みました。家族とのスキンシップも当分お預けです。
そんな中でも、努めて笑顔で過ごしたいと思っています。我々医療従事者は、感染症対応はもちろん、日常的な医療を継続できるように努力していますが、例えば受付業務やお店のレジ担当のように多数の方を相手に日々緊張して過ごしておられる方や、自宅でやり場のない気持ちをなんとかやり過ごしている方もたくさんおられると思います。がんばっているのは自分だけではないことに、減りこそすれども、決して往来が絶えることのない、街行く人々をみて気づいたからです。
人と人とが物理的に分断されている今、心と心ではつながって、思いやって、この試練を乗り越えていきたいです。
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過去記事up その2 2017-08-13

縁あって、広島で生まれ育ったお母さんと出会いました。
平和記念資料館を初めて訪ねたとき、なぜいまだに核兵器がなくせないのだろう、なぜ核実験をやめないのだろう、という悔し涙を流したことを忘れません。

去年、お父さんは5年ぶりに広島に行きました。
原爆ドームの電停を降りて、平和記念公園に入り、「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」の碑から改めて原爆ドームを見て。
資料館の売店で一休みして、まだ小学校低学年、幼稚園の君たちに、見学するかどうか尋ねました。
戦争という言葉も知らない君たちに、どう説明したらいいか、言葉に詰まりそうだったというのが本音ではあったのですが。
見学はしないことになり、原爆の子の像や折り鶴をみて、公園をあとにしました。
お姉ちゃんが歴史を勉強するころか、いつかは再び訪れたいと思っています。

皆が引き続き平和に暮らせるよう、国民の皆さんが平和を希求し、世界の指導者の方々が武力による挑発をやめてくれることを、お父さんは願っています。
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俺はいい医者でしたか? [お医者のキモチ]

プライバシーであったり、自分の気持ちの整理であったり、下書きのままで置いておいたけれど、ゆうに5年以上たったので、この記事をあげようと思う。
加筆修正はいらないようだ。

偉そうなようだけれど、自分が抗えないと感じたときが、患者さんの救命、延命治療が終わるとき。医者が諦めてはいけない、ことは肝に銘じている。患者さんによりよい最期を迎えてもらうことも仕事の一つだけれど、Best Supportive Careへの移行を決断するのは、つらい。


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3年ほどのお付き合いの患者さん。
自分が駆け出しのころに手術させていただいて、その後ずっと診てきた方。

ときどき「勉強だから」、「勉強のために」っておっしゃっていた。
長いこと、自分は本で勉強して、上司と相談して、そのうえで治療してるのにな、って思ってきた。
実際、患者さん自身も「いろんなことが初めての経験だからね、勉強になるなって思ってる」っておっしゃってたし。

元気な時から、「先々」の相談をしていた。
できるだけ家で過ごしたい。いわゆる延命処置は受けたくない。
症状緩和が主体になってきて、いよいよ通院が難しくなってきたとき、通ってくるのは大変そうだからと往診を勧めたけれど、「センセー以外の人が来るんだったら嫌」っておっしゃった。
「じゃあ私が行きます」って答えた。(上司がときどき往診してるので)

往診なんて、研修医の時の診療所研修ぶり。
往診車に揺られながら、「俺はいい医者でしたか?」なんて考えた。ちょっと自己陶酔した。
大学病院やがんセンターに、治療から在宅緩和ケアまで一貫して診る医者はいない(そもそもそれを求めるべき病院ではない)。
一流の最先端ではないけれど、地域の病院にしかできないいいところがある。
病院でみる患者さんはかなりつらそうにしていたけれど、おうちにうかがったらいい顔してた。

そう思ったのだけれど。


もうそう長くはなさそうなので毎週伺うことにした矢先、あることがきっかけですっかり表情が良くなった。
「それ」ひとつでこんなに元気を取り戻すものか、って驚いた。

食べられなくなってから1か月ほどして、
食事中に家族が揉め事をするのが嫌。せっかく食べられるんだから、楽しく食べてほしいって。
消化器の医者として「口から食べる」ことにはこだわりをもっているけど、食べられればそれでいいじゃなくて、楽しいって、大事。



実際には、俺はこの人に手術も、抗癌剤の使い方も、最後は在宅医療まで教えてもらったのだった。
むしろ、俺はこの人の命を救えなかったんだろうか、なんとかやりようはなかったんだろうか、という悔しさが芽生えてきた。
いまさら。

最初から最期までご本人の望むことを直接本人から伺えて、それに沿ってケアできて、よかった。
この世の中のthe bestだったかどうかはわからないけれど、自分の思うbestを信じてくれた。

一方で、打てる手にはどうしても限界があるけれど、新しい「手」を学んだり、うまく駆使したりっていうこともきちんと追求していかなければっていう気持ちも新たにした。

胎児期の記憶その2 [新しい家族]

息子7歳。
入浴中、きっかけは忘れましたが、このチャンスにきいてしまおう、と。

お母さんのおなかの中は狭かった。
ストローがあって、お母さんからはえてて、(自分の臍あたりを指して)このへんに入ってた。よく覚えてない。

だそう。
何をして遊んでいたかは覚えていない。
○○だったら、テレビ持ち込んで遊んでたんじゃないの?ってきいてみたけど、さすがにそんなことはしなかったらしい。
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皆さんに感謝 [今日のできごと]

相方が子どもたちを連れて実家に帰っている間になにがしかをするのが恒例。
押入れの整理であったり、冷蔵庫の掃除であったり、「すみっこ」の掃除であったり。

今回はシーツ類を洗ったり、カーテンを洗ったりしてみた。
もう一つはアルバムの整理。
以前いただきものの写真をアルバムに整理したら、上の子はまだましだけれど、下の子は赤ちゃんからいきなり幼稚園児になってしまったので。   何年分だよ・・・

手始めにPCからDVDに画像を移した。
プリントする画像を選んだ。デジカメの時代、いっぱいあって大変。
節目と、イベントと、可愛く映ってるのを重視。
見返す機会はきっとそう年中はないから、生い立ちの紹介に困らないような写真を選んであげたいな、と。
数うてば、うまく映ってるのも結構あった。

まだ妻方初の甥っ子が数か月前に生まれたばかりということもあって、義父母、義弟とどんな写真を撮ったのかって正直言って興味を持ってみる機会はなかった。
孫が可愛いのはある程度当然として、自分が結婚する以前に自分方の甥っ子を可愛がったのと同じように、義弟たちもうちの子たちのことを本当に可愛がってくれていたんだなぁ、ってことに今更気づいた。
ってことは伯父さん伯母さんにとって、きっと自分は可愛いい○○ちゃんだったんだろうなぁ、なんてことに35年ぶりに気づいた。

大変だけど、いい機会だった。
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6才、7才 [今日のできごと]

息子の運動会。
年長さんの定番演目で、わが子が「基準」(端っこだったり、動き初めだったり)をつとめた。
いつまでもただのやんちゃ坊主じゃないんだなぁ。
リレーも追い上げ、追い越しをみせてくれた。

幼稚園のお祭りでは賞品の剣を5本獲得。
ベルト通しにかけたり、背中にさしたり、二刀流したりで、とにかく5本持ち歩く。
たぶんこれからもクラス替えのたびに「行きたくない」っていうけど、みんなとなかよく遊んでいて安心した。



1週間後にピアノの発表会を控えた娘(小2)が、教室に行くのを拒否。
怒られるとか、先生が怖いとか、そういうことではないらしい。
去年はいつになったら火がつくやら、って思ってる間に発表会を終えてしまったので、成長したなぁ。

と思ったけど、通しで、うまくいった!完璧!というところをきくことなく、今年も発表会突入。
本人もさることながら、みているこっちも緊張。
2曲目で2回止まってしまったけど、結構上手だった。
他のお子さんの発表をきいていても、小学校低学年ってこんなものらしい。
ピアノ、当面は続けるということなので、今後に期待。

熊本地震 支援最終日 [おしごと]

最終日は当直明けということで午前休み。
勤め先(派遣元)への報告をつくったり、3日目分のブログを書いたり。
思いが通じたのか、昼ごはんはそばだった。
医局で現地のDr.や事務さんと、改めて地震直後の私的な状況の話や、医師の研修のあり方の話ができた。

予約なしの午後外来の患者さんは少なかった。
避難所を転々として、まいってしまっている方を診たところで、帰り支度をする時間になった。

空港で、お土産と、あまなつチューハイと、いか天と、サンドウィッチを買った。
お土産売り場の一部や、ラウンジや、一部の搭乗口が地震の影響で使えない状態ということだった。
搭乗口では、夕方だったのもあって、ビールや日本酒を飲んでいる姿がちらほら。自分も、酒解禁。
羽田行は満席とのこと。業種は違えど、緊張が解かれた方々も少なからずいらっしゃったに違いない。
なんだか涙が出てきた。酒なんか飲んじゃったからかな。充実感なんて全然ない。悔しいってわけでもない。今でも避難生活を続ける方々に申し訳ないような、でも任務を終えて安堵したような、そんなところなのだと思う。
たくさんの良心を乗せて、無事に帰りつくように、と思った。

羽田からのリムジンバスでの車中、相方、実家の親、上司、派遣にかかわる事務担当者にメールを送った。
たくさんの人が自分を心配して待っていてくれているって、ありがたいことだなぁって思った。

無事、家に到着。
相方には、自己実現のためにとは言わなかったけれど、心配かけたことをお詫びした。
上の娘は、抱き起したら、うん、うん、お帰り、お休み、だった。
下の息子は、、起きなかった。
こっちに戻ってきてから、基本は第3のビールだけど、プレ○アムモ○ツを買っておいてくれた。

この経験を踏まえて、提案できること、連携できることはやってみたい。

ただ、どうもすっきりしない。
達成感、充実感はない。たいしたことしてないから。
むしろ、山のようにある解決すべき問題に、到底太刀打ちできない、という気持ち。
病院で待っている医療では、、、かといって避難所に出向いても医療だけでできることは、、、
地元で関わり続けるわけではない、一時的な支援者は、どんな業種でも同じなんだろうなぁと思う。
年というスパンで見たときに、復興の小さな一片を担った、といえるようになるんだろう。きっと。
そもそも自分の気持ちを充足させようということ自体が間違いだと。


また(5年前のように)行かずにウジウジ後悔しているより、行ってよかったと思う。
ただ、それは周囲の人にとても心配をかけることだということがよくわかった。
あくまでも支援。「達成」するのは地元の方々なんだという心構えというか、開き直りというか、そんなところらしい、ということも、わかった。

熊本地震 支援3日目 [おしごと]

夜救急で来られた方のCTをみて、転送のお願いをした。多少は、外科医としてのスキルを発揮する機会あり。

日曜日は日中フリー、その後当直。時間的な余裕はだいぶあるとはいえ、人生初の連直。
市電に乗って、まず熊本城の周囲を歩いた。敷地内は完全に立ち入り禁止。
石垣が崩れて、その土台に乗っていた建物が雪崩のように崩れていたり、下敷きになった建物があったり。
崩落していない個所でも、石垣の石が小さくなっていたり、ずれて浮いていたり。
綿密な調査、手順を組んだうえでないととても手が付けられないことが容易に想像できる。

再び市電に乗って熊本駅を目指す。
繁華街が近づくとごく普通の日曜日の服装の方々と同乗することになる。Tシャツ、ジーンズ、運動靴、薄汚れたカバンの自分はむしろみすぼらしいくらい。
駅でお土産を発送したところでもうお昼。病院に戻ってご飯をいただくことにした。

コンビニでノンアルコールの缶チューハイと冷やし中華を調達しておいた。
わずか数日だけれど、毎食コメというのはつらいものだということが実体験されたので。
お昼ご飯をいただいた後、自室でこそっと「おやつ」を食べた。
そのあとは、当直明けモードの頭をリセットするため、まさに惰眠を貪った。

結局、自分の分担の時間には患者さんがいらっしゃらなかったので、まる1日一人も診なかったのだけれど。
報告書、提案を書いたりして、いざ眠りにつこうと思ったら眠れず、結局頭がボケッとしている月曜朝。

熊本地震 支援2日目 [おしごと]

夜、眠れはしたけれど、救急車のサイレンや、朝方掃除の物音がしたりで落ち着かない。
やばい、頭が当直明けモードかも。

今日は午前外来。
「バディ」がクリニックの支援に出たので、予約なしの10人ほどを診察。
出足がバラバラだったので、今日もゆったり対応できた。
一部ききとれない言葉があったり、知ったような口をきいて気分を害すと困ると思ったりで、相づちを打ちつつ、遮らずにお話しをきいた。
ひとしきり話した後、長々しゃべってすみませんね、ありがとうございました、と言ってその方は退室された。
噂にはきいていた「5分ひたすら傾聴したら、患者さんは自ら話を止める」ってこれのことか!と思った。
普段は早く回転させることがサービスのひとつになってしまっている。この経験を生かせるといいのだけれど。

体を休めたいのもさることながら、院内にこもりっきりになるリスクのほうが高いと考えて外出。
倒壊の恐れ、という病院は、通りからみる分には窓が割れてベニヤで塞がれたり、一部外壁が崩れたりしたようだった。見るからにあの大病院が機能停止した影響は大きそうだった。
川辺の公園へ。都市部だというのが信じられないほどきれい。橋の上からでも10cmほどの魚の姿が見えるくらい。
ベンチに座って、缶コーヒーを飲みながら妖◯ウォッチぷ◯ぷにをした。公園でスマホに向かって激しく指を動かしてる俺って、ちょっと不思議な人に見えただろうなぁ。
ブログをかきはじめた矢先、病院から呼び出しの電話。
散歩の続きを楽しむことなく、日光浴終了。

被害が大きかった地域への車上視察にも連れて行っていただいた。
市内にも塀が崩れているところ、ブルーシートがかかっているところは少なくなかったが、市の境を越えてすぐに、建物が傾き、車が押し潰されている光景が目に入った。比較的新しい建物以外は、おおむね傾いているか、地面と屋根が接しているか。
1ヶ月を経て、道路は確保した、くらい。もう一押し来たら、また道路を塞いでしまいそうな家屋がまだまだある。
ゴミ袋がたくさん並んでいたり、道路が波打っていたり、見た目はしっかり立っている建物に黄色の「要注意」が貼られていたり。
断層との位置関係が大きな違いらしい。さらに、罹災証明の発行までに時間がかかったり(住居支援は不要という人でない限り撤去工事に着手できない)、といった行政のパワーも復興に大きくかかわっているものと思われた。

その後当直。
震災がきっかけで不安が強くて頻繁に通院されている方くらいで、あとは1次救急レベルが数人。落ち着いていた。

熊本地震 支援初日 [おしごと]

今日は午後からのシフト。
午前中に前任の医師と交代で部屋をあてがわれた。
…ホコリっぽい。1ヶ月掃除してないのでは…
換気して、掃除機借りて、まず住めるようにした。
医局で頼めば掃除機貸してくれるって申し送りに書き足しておこう。

スケジュール的には結構暇をもて余した。
患者数が落ち着いてきて、求められる業務量が減っているのだろう。実際、6月からは1クール4人が2人に減るそうだ。

午後、外来・救急の診察。
ごく一般的な発熱のほか、避難先の他県から戻られた方、やっと少し落ち着いたところで久しぶりに通院されてきた方、他県から支援に来て具合が悪くなってしまった方。
ゆっくりお話しをうかがう余裕があり、かつその時間を常勤医ではなく我々が請け負うことができて、少しはお役にたてている気がした。
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