SSブログ

熊本地震 現地入り [おしごと]

羽田。
お土産買ってったほうがいいんだろうか。
今日はオリエンテーションだけとわかっているのに、緊張のあまりビールを飲みたいと思わない。

熊本行きの飛行機は比較的すいていた。
高度が下がってくると、ブルーシートに覆われた家が多数目に入る。
市内に向かうバスの車窓から、がんばろう熊本、支援ありがとう、というメッセージ、グランメッセ前を通過するときはテントが見えた。
やばい、俺、津波の映像とか直視できないんだった、ということにいまさら気づく。

病院着。医師以外の職種は1週間サイクル、医師は2~4日サイクルという事情で、医師だけでのオリエンテーション、業務の割り振りということだった。
前震では大きなかわりはなかったが、本震でライフラインに支障が出たり、周辺医療機関が機能しなくなったり、片付けてもしかたない、家に帰ってもしかたない、という状態になったのだという。
常勤スタッフが予約外来と入院患者に専念できるように、支援スタッフが予約外と救急をみる。
支援スタッフは午前・午後・当直がひとつおきになるように配置。
でも自分は例外で土日連直だった。全然眠れない当直というわけでもなさそうだから、よしとした。
救急の受け入れは現在でも平時の2倍程度ということだが、揺れもおおむね収まり、急性期も乗りきったところで、常勤の皆さんに見てとれるほどの疲労がにじんでいるということはなかった。
それもそうだけれど、医局事務さんが2日ごとに受け入れのために21時ごろまで残っていなければならないことが気になった。

その日は病院の近所の方のお宅に泊めていただいた。
その方も、面倒見がいいとはいえ2日ごとに人が泊まりに来る生活が1ヶ月も続くのは大変だなぁと、後になって気づいた。
そして、1日でも院外に泊めていただけたことを後になって感謝することになる。

熊本地震 派遣前 [おしごと]

熊本に、関連の現地医療機関の支援に行くことになった。
宮城の支援の時に手を挙げなかった自分が情けなくて、今回は、機会があればと申し出ていた。
勤め先の全国的なネットワークを「利用」すれば、ある程度会社任せで行ける環境にあるのだということに気づいたりして。

当初、関東には支援要請はなかったようだが、長期化のため全国に拡大し、自分にも声がかかった。
妻には話してあった。
日程的に娘の運動会が重なったため、2日がかりで理解を得た。
そういう事情のなかった息子には事後報告的になってしまったが。

いざ派遣の日が近づいてくると、手を挙げはしたけれど声がかからなかった、が気持ちの上で一番楽だったのかな、などと思ってみたりして。
東日本の時のように、自らが家の片づけをしたり、買い物に困ったり、偶然に家族が近くにいない心細さがあったり、原発事故があったりということはないけれど、地震直後のたびたびの余震や、回を重ねるうちに緊急地震速報よりも眠気がまさってきたこと、地震なのか自分が揺れている気がするだけなのかよくわからなくなってきたことには、今回も遭遇するかもしれない。
1か月ほどの間、支援者のけがといった話はきかないけれど、大きい余震が再来する可能性はゼロではない。

いまさら、ここ数日は子どもが寝る時間に合わせて一緒に寝たりして。

早いもので12年目、駆け出しどころか中堅の域に入った自分ではあるけれど、子どももお年寄りも診ているけれど、今、外科医が行ってどれほどお役にたてるだろうか。
果たして方言が聞き取れるんだろうか。
心の不調を訴える方の話をしっかり聞いてあげられるだろうか。

こういう心理状態も含め、一つの経験ととらえることもできる。
でも、自分の思いを支えてくれる家族、自分自身のストレスは想像以上だった。
たまたま、とか言ってお守りを買ってきてくれたけど、全然たまたまとは思えない。
あぁ、「自己実現」のためにまた家族に心配かけちゃったなぁ・・・。
職場のみなさんも心配してくれてるけど。

支援者の心得でもあるわけだけれど、しっかり体調管理する。
命懸けない。二次災害は不幸を増幅するのだもの。
で、現地スタッフの負担を少しでも軽減できるように、自分の持てる力を発揮する。
なんだかなぁと思うけれど、それが現実的な目標。

3月

娘、もうすぐ小学2年生。息子、もうすぐ年長。
ずいぶん大きくなったものです。

娘が年中の時、自転車を買いました。息子におさがりをあげられるように、青にしてもらいました。
息子はあっという間に大きくなって、(残念ながら)息子には緑の自転車を買いました。

娘もあっという間に大きくなって、サドルをあげても追いつかず、今度は本人の思う色の自転車を買いました。
青の自転車は近所の男の子に貰ってもらいました。

子どもの成長はあっという間で。
自分の時とは比べ物にならないくらいたくさんの宿題、習い事を一生懸命こなして、算数が好きだって。
息子も、前までは気に食わないことがあればものや人に当たっていたのを、必死に我慢するようになって。姉をみて簡単な足し算ならできるようになったし、エレクトーンの発表会も間際に驚異的な追い上げを見せて。

両親の背丈から、娘、3~4年後にはおそらく身長160cm。うれしいやら、おそろしいやら。
いまのうちにいっぱい抱っこしておかねば。



震災から5年を経て、自分なりには大変だったし、自分以外はたまたま広島に集団疎開中で思いを共有してくれる家族がいないし、都心には都心の考えるべきこともあると思ったけれど。
福島で幼児期を過ごした子供たちは砂遊びのしかたを知らないとか、当時小学生だった方々が、自分の経験したことを語り、打ち明けるのを、みたり、読んだりして、いろいろ考えたんだけれど、文章にするにはとりとめもなくて。


いつでもできるけれど、しなければならないことは、家族に愛情を注ぐことかな、と。

脳内マニュアル [お医者のキモチ]

駆け出しというにはそろそろおこがましくなってきた今日この頃。

飲みに行った帰りのバスの車内で、m3のがん関連の記事を読みふけっていたら、バス停を2つ乗り過ごしていました。
ある意味、結構ホッとしました。
そのあと、亡くなった患者さんのことを思って泣きました。
また、結構ホッとしました。

だいぶ脳内マニュアル化されてきましたが、この仕事を続けていても許される気がしました。

胎児期の記憶 [新しい家族]

新しい家族ったって、上の子は6歳になりました。
幼稚園を卒園し、もう数日で小学校入学です。

入浴中に「どうしてお医者さんになろうと思ったの?」という話から、「お父さんこわいけど実はやさしいでしょ?」と答えました。
子「生まれてくる前、どんなお父さんかなって思ってた」
父「へ~、お母さんのことは知ってたの?」
子「お母さんのこともわからなかった、どんな気持ちかうまく話せるかなって思ってた」
父「どっちにしても赤ちゃんはうまく話せないよね。お母さんのおなかの中楽しかった?」
子「おもちゃがなくて遊べなかった。蹴らないようにって思ってたんだけど」
父「当たっちゃった?赤ちゃんのころからやさしかったんだね」

「赤ちゃんの時、壁と遊んでるみたいだった。なんかわかんないけど、壁と戦ってるみたいだった」


大きくなると忘れてしまうという胎児期の記憶。
ふとした時にきけてラッキーだったので忘れないうちに。
nice!(1)  コメント(0)  トラックバック(0) 
共通テーマ:育児

東北の旅 ~震災後の現状記録 [旅]

何年ぶりかに書いてみようかという気になりまして。

今夏の家族旅行は東北に行きました。
自分は本州最北端の大間から恐山、奥入瀬、平泉、松島と車中泊込みで南下したことがあって、
西のほう出身の相方は今のところ日光やスキーでしか行ったことのない新潟が本州最北端で。
2011年、「今年の夏は東北」と話していたのですが、その3月、事態は一変しました。
当時2歳と0歳のこどもを連れて行くのはためらわれました。



子連れなので長距離移動や山歩きは諦め、平泉とその周辺に行くことに。世界遺産だし。
SL銀河や三陸鉄道はそもそも予約がとれるかや本数が少なくて乗り継げなかったときのリスクを考えて断念。
平泉まで電車、一ノ関泊
レンタカーで渓谷に行って、港町に寄りつつ南三陸泊
松島で遊覧船に乗って、仙台の秋保温泉泊
仙台市内観光して家路
の予定になりました。

兵どもが夢のあと の意味がやっとわかったりとか(平泉)、
かごに乗ったお団子食べたりとか(厳美渓)、
渓谷そっちのけで鮎やカモに餌やったりとか(猊鼻渓)、
怖がりながらも「探検」と称して洞窟に入ってはしゃいだりとか(幽玄洞)、
海っぺりのホテルにウミネコが間近に止まりにきたりとか、
一大イベントのはずだった遊覧船の島巡りでみんな寝ちゃったりとか(松島)、
滝壺の近くで石拾いしたりとか(秋保大滝)
3歳児がダントツで遊歩道の先頭歩いたりとか(磊々峡)
こどもが大好きな「おっきいお風呂」、恒例の家族風呂に入ったりとか、
もちろん家族旅行らしく楽しみました。

けど、今回書かなきゃって思ったのは、車窓から見た衝撃的な光景です。
歩くのに時間がかかったり、頻繁にトイレ休憩が必要だったり、ドライブの時間を短めにしたりという制約があり、思っていたほどたくさんの港町には寄れませんでした。

気仙沼から国道45号に入りました。
国道を走っている分にはとくになにごともないような・・・、港に向かってみることにしました。
しばらくはやっぱりなにごともなかったようにみえて、だんだん工事現場が左右にみえてきました。なんだかうず高く、頭上はるか上まで土を盛っている。建物でいえば4階とか5階ぐらいか。
走るうち、道路と同じ高さに、基礎を残して建物が流された宅地。がれきこそ見当たらないけれど。
「築山」を右に左に避けるうち、市場に到着。建物には津波の高さを示すプレート。高さは遙か頭上、やはり4,5階くらい。心ばかりの買い物をさせていただきました。
道路より少し高いくらいの盛り土の上に、仮設店舗がありました。

・・・人々が暮らす街や商店を押し流していったのは、波というよりも壁だったのでしょう。
うちの5歳児は「泳いで逃げればいいんじゃない」と言っていましたが、「こーんな波が来たらどうする?」って返すと、少しはことの大きさがわかったようでした。
※復興計画を参照すると、「築山」は防潮堤で、その山側を漁業関連施設、さらにその山側を宅地にしていくようです。

気仙沼をあとにして、国道45号を南下。
「過去の津波浸水区間」の標識。「ここから」「ここまで」が5か所ほどありました。記憶の範囲で、最低でも海抜19m。最低で。
つまり、海抜20m以下では浸水してしまったということです。(学生時代等を振り返ると恐ろしい)

道路からやはりはるか頭上に、橋桁や線路を失い、ひん曲がった金属の残骸だけのついた橋脚。
海岸線部分のJR気仙沼線はBRT(bus rapid transit、バス高速輸送システム、大都市およびその都心域の大量公共旅客幹線輸送を実現するシステム=wiki pediaより)になっていますが、線路を敷きなおすより手っ取り早いからね、とか単純に思っていたのは大きな誤りでした。
バス専用線にできる部分はそうなっていますが、そうでない部分は一般車両との共用です。

南三陸町に入るあたりから、「○○地区仮設住宅」という道しるべが出るようになりました。
国道沿いにも、「入居者募集」と書いたプレハブの仮設住宅。仮設店舗もみえました。
コンビニもプレハブ。もはやインフラといえますね。

部屋からも風呂からも海がとっても綺麗に見えるホテルに泊まりました。
宿泊客のチェックアウトは震災から3日目だったこと、職員自身も被災者でありながら地域住民の受け皿としての役割を果たしたこと、ライフラインがなかなか復旧しなかったことなど、パンフレットにまとめていました。
被災地をまわるバスツアーもあったのですが、まわりの方のご迷惑になるリスクが高いと考えて断念。
ここでもまた少しばかりのお買いものはさせていただきましたけれども。

時間の都合で石巻は三陸自動車道から眺めさせていただきました。
赤十字病院に派遣されていた元同僚のことを思い出しながら。

松島は、大人の背丈ほどの浸水だったようです。
海沿いの遊歩道の舗装ははげたままでした。
写真を見ながら「みんなが一生懸命お掃除したんだって」と話すと、5歳児はなんとなく理解したようでした。

再び三陸自動車道から、仙台東部道路へ。
ここが防潮堤の役割を果たしたという・・・
でも、海側にも稲が青々と。見える範囲には震災の爪痕は感じませんでした。
※仙台東部道路は海岸線とほぼ平行に走っていて、その距離は約2.5~4.5km。若林区から名取市にかけて、この道路より山側が守られたということです。
塩害を言われていましたが、見事に回復したということですね。


今なお不便な生活を強いられているみなさんが、少しでも早く落ち着いた日々を取り戻せるように祈っています。
さまざまな国、自治体、個人が、ぜひ視察に訪れて、この教訓を生かしていただきたいと思いました。

首都圏脱出 -原発・放射能- [時事ネタ]

すっかり忘れてたんですが、今の病院に移った理由のひとつは「首都圏脱出」でした。
最近上司に言われて思い出しました。
妻の賛同を得られた要因でもあり。

引っ越す前は
思い出したように震度3~4の余震があって、
公園や学校の放射線量の測定や除染があって、
庭木やゴミの焼却灰の保管場所が一杯で、
農産物の産地が気になって。

引っ越した先の暮らしは、そんなこと遠くの国の出来事のようでした。
地震もなく、
当然放射線量、ましてや除染なんて話題はまったくなく、
新聞に載っている雑誌広告にも放射線、ホットスポットなんていう見出しは皆無、
あるエリアの農産物をみることはそれほど多くなく(今は当時ほどではありませんが)。
正直言って、清々しささえありました。


首都圏より西側に出ると、放射能汚染や、除染なんて原発周囲のことでしかありませんでした。
関東から来た自分がそんな話をしても、驚かれ、最悪笑われる始末です。
報道されることは事実、報道されないことは「存在しないこと」という現実。


帰省するたびに、新聞の記事を探し、最近の状況を親にきいています。
最近では公共施設の除染が済んで子供のいる家庭優先で除染作業が進んでいる、ごみの処分場の問題は未だ決着がつかず。

原発から250km離れていてもこんな心配をしなければならないという、憶測ではなく、事実。
決して広くないこの国の在り方を決める上で、もっと知られているべきことだと思う。

半年と少し [続 新しい家族]

しばらくご無沙汰だったのは、愚痴ばーっかりになりそうだったので、自主規制です。


上の子は4月から幼稚園の年少さんです。
幼稚園には楽しく通っているようで。
ここ半年でグーンといろんなことが話せるようになりました。
夜祭や運動会、幼稚園祭に行きました。
将来はケーキ屋さんになりたいって。さすが親の趣味で美味しいケーキを食べているだけのことはあり。
運動会では保護者リレーなんぞ出てみましたが、結構白熱して楽しかったです。
ちょっと見ない間にペダルなしの自転車を上手に乗りこなせるようになりました。そろそろホンモノの自転車にトライだね。

下の子は2歳になりました。誕生日のプレゼントはプラレール。
気に入らないことがあると近所から苦情が出るくらい大きな声で泣くこともありました。
幼稚園祭の時は、スタッフとして先に行った母を追いかけて一生懸命幼稚園まで走りました。タフです。
公園に行ったり、コンビニまで散歩に行ったり、まるっきりお母さんと一緒じゃなきゃ、ってことなく過ごせる時間が増えてきています。
最近ではお風呂に「お父さんと入る」って言ってくれるようになりました。

相方もご近所さんや幼稚園のママ友さんたちと仲良くしているようです。グチのはけ口になることもあるようですが。
幼稚園祭のバザーに出したのもあって、今はビーズでひよこやハートやキャラクターを作るのにはまってます。


今の勤め先は、数を経験するには申し分ない環境です。僻地の中での中核病院の役割を経験できるのもいい機会でした。
引っ越してきた当初はストレスで眠りが浅かったうえに、上の子が夜になるとゼーゼー苦しくて眠れなくなって、きつかった。
まだまだ「慣れない感じ」は続くけど、はじめのころに比べれば上司との付き合い方がわかってきたし、夜更かししてもあまりこたえないかな。

けど、曜日・時間問わずなにかあれば全部主治医のところに電話がかかってきたり、予定手術の患者さんの休日入院に対応しなければならなかったり。
待機にあたっていると、虫垂炎や腸閉塞という「病名」だけで、緊急度を問わず真夜中でも呼ばれます。
勤務が終わってPHSの電源を切りさえすれば、緊急手術以外に病院から電話がかかってくることなんてほとんどなかったので、ギャップにかなり戸惑いました。

相方ともども思い出のあるこの地で、もう少し他県も含めて遊びに行けると思ってたのにな・・・。
あくまでも勉強しにきた身ではあるのですが。
そんな中で、みんなで買い物に行ったり、子どもと公園で遊んだり、ふと手にしたduty freeの日に1泊で家族風呂に入ったり、紅葉見に行ったり、家族同伴で帰省を兼ねて学会に行ったり、手の抜き方も覚えてきた日々です。

またあう日まで [今日のできごと]

3月に書いていた記事。


送別会シーズンのこのごろ。
自分も今回送られる側として6回もお招きいただきました。
そこそこの勤続年数の外科医となれば関連部署も少なくなく。

先日は一連の送別会のファイナル。
散会が告げられるそのときまでは、ふだんと変わらず、マイペースに食べて飲んでしていました。

いざ出ようとしたら、同期がトイレにうずくまって出てこないらしく。

結局一緒にタクシーに乗り込んで、彼を自宅に送り届けるハメにあいました。

選んだ科は違えど、7年間ずっと支え合ってきた仲間。
なんで最後がこうかなぁ、って思いつつも、玄関では思わず抱きついちゃいました。
そして、駅近くの人目につく通りに出るまでは泣きました。
むしろ、互いの存在に影響され続けつつも、お互い子どもも生まれて遊ぶ機会も減った彼と、最後の最後に一緒に過ごす時間を与えてもらえたんだって。

・・・結局その後連絡はなく、タクシー代も返ってこなかったけど・・・。


お世辞にも愛想がいいとはいえない自分に、たくさんの人が「帰ってきてね」って言ってくれました。
手術がたくさん経験できる新しい病院が楽しくなる可能性もあるし、逆にもとの病院が恋しくなるかもしれない。
もとの病院にしても、いっぱいいっぱいだから早く帰ってきてっていうかもしれないし、逆に4月から来るDr.がやり手だからしばらくいいよって言われちゃうかもしれない。
帰る場所があるのはとっても心強いことだなぁと思う。

4月からは出身大学の関連病院で研修(といっても身分の上では常勤)。
いろんなことを吸収したい。
、と追記した2012.04.17.。

3歳 [続 新しい家族]

1月に書きかけていた記事。


娘が3才になりました。
子どもの成長を祝って何が悪いって、誕生日当日と休日の2回ケーキを食べました。
つたないながらも本人もhappy birthdayの歌をちょっと歌えるようになりました。
「ピース」と「3」が別物だということも理解しているようです。
プレゼントはクネクネみちやクルクルまわるしかけを組み合わせてボールを転がすおもちゃ。
組んでいるそばから下の子が破壊する危険性が危惧されていましたが。


携帯から打ってたけど、ここから先はエラーで編集できなかったような・・・。
2012.04.17.アップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。